多摩川浅間神社のご案内

由緒

 当浅間神社は、今から八百年前の創建と伝えられます。鎌倉時代の文治年間(1185~90)、右大将源頼朝は、豊島郡滝野川松崎に出陣しました。
 夫の身を案じた妻政子は、後を追ってここまで来ましたが、わらじの傷が痛み出し、やむなく多摩川畔で傷の治療をすることになりました。
 逗留のつれずれに亀甲山(かめのこやま)へ登ってみると、富士山がじつに鮮やかに見えました。富士吉田には、自分の守り本尊である「浅間神社」があります。
 政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。
 村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、永く尊崇しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。
 承応元年(1652)5月、浅間神社表坂の土どめ工事をしていたとき、九合目辺りから唐銅製の正観世音の立像が発掘されました。多摩川で泥を洗い落としてみると、片足がありません。そこで足を鋳造してお祀りし、6月1日に神事を行いました。以来、ご祭礼は6月に行っております。

御祭神

 ご祭神は山緑を守る神・大山祇神の姫君で「桜の花が咲き匂うような...」と言われる
木花咲耶姫命です。
 三つある社紋の真ん中が「桜」なのも、このご祭神にちなんでいます。
 木花咲耶姫命は、天照大神の孫瓊々杵尊に見初められ、皇后となられた御方です。
 命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、隙間をすべて壁土で塞いだ無戸室に入り出産の準備をされました。
 いよいよ産気づいたところで室に火を放ち、炎の中で無事に御出産になられました。
 そして、無事3人の皇子を生まれたという故事から、家庭円満・安産・子安の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として崇敬されています。

歴史

社紋のいわれ

 昔、下沼部村には、浅間、赤城、熊野の三つの神社がありましたが、明治40年、”一村に一神社”という合祀のための政令が出されたことから村人たちの話し合いが行われ、浅間神社が新しい村の 鎮守様になりました。


浅間信仰

 昔から山嶽は、神々の鎮まるところとして神聖視されてきました。木花咲耶姫命の鎮まる霊峰富士に、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を唱えながら登拝し、その山容に似た雄大なご神徳を仰ぐ浅間信仰に基づき、各地に浅間神社が勧請されております。


富士講

 浅間信仰の団体として「富士講」がありました。当社境内には、富士講中興の祖・食行身禄の石碑があります。 彫られている文字は、幕末の快男児・勝海舟の直筆です。


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