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昔、下沼部村には、浅間、赤城、熊野の三つの神社がありましたが、明治40年、”一村に一神社”という合祀のための政令が出されたことから村人たちの話し合いが行われ、浅間神社が新しい村の鎮守様になりました。 |
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昔から山嶽は。神々の鎮まるところとして神聖視されてきました。
木花咲耶姫命の鎮まる霊峰富士に、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を唱えながら登拝し、その山容に似た雄大なご神徳を仰ぐ浅間信仰に基づき、各地に浅間神社が勧請されております。 |
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浅間信仰の団体として「富士講」がありました。
当社境内には、富士講中興の祖・食行身禄の石碑があります。
彫られている文字は、幕末の快男児・勝海舟の直筆です。 |
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「北川家文書」は、旧荏原郡下沼部村の名主文書で、「諸御用廻状留帳」など江戸期から明治期までの貴重な民政資料として高く評価されています。「廻状(かいじょう)」というのは、村から村へ領主(天領の場合は代官)からの用件を通達してきた書状のことで「留帳」というのはその文書を記録として書き留めた村の”控え帳”のことです。
内容は、支配・村政・村況・戸口・土地・貢租・交流・金融・宗教・その他項目に分類されています。
江戸時代、この下沼部村は天領、つまり幕府の直轄地として世田谷領の属していました。多摩丘陵の南端部、多摩川に突き出した舌状の台地にある浅間神社の下から南に広がる多摩川沿いの村が下沼部村でした。現在の田園調布一丁目、田園調布本町にまたがる区域がそうです。
「北川家文書」は、昭和48年(1973)、神社を改修した際に神楽殿の下から出てきたもので、史料ののほとんどが寛政期以降、幕末のものであることに特徴があります。
この「北川家文書」は、全4巻にまとめられ、大田区教育委員会から刊行されています。 |